
唐突なクソザコグラフの登場に戸惑いを隠せないかもしれませんが、
今回のテーマは「努力」です。
「仕事ができる人」「いろんなことを成し遂げた人」は、漏れなく努力をしています。
しかし、「努力したからこそ今がある」ということをわかってくれない人もいます。
「地頭がいいからだ」とか、「もともと才能があるからできるんだ」とかね。
これは才能がある人も努力しているということを軽視する発言なのであまりよろしくないですね。
「才能」だけで大成したわけではなく、「努力」したからだよ!と。
ただ、大成した要因は「努力だけ」なのでしょうか。
何年か前に、学校での子どもの勉強の話から派生した流れで以下のように言われたことがあります(自分には子どもはいないけど)。
「努力してもできない人はいる」と。
「もともと勉強ができるから薬剤師になれたんだ/本を書いたりできたんだ」みたいな(←ブログ主の地頭の質を見誤っている点は大いに反論したい)。
当時の自分は「それはちょっと違うのでは?」と思いました。
「努力してない/努力できないことの言い訳」のように聞こえてしまって、勉強すればできるようになることをわかってもらうことが大事なんじゃないかと思ったんですよね。
そこで、「『地頭の良さ』よりも『努力しているか/勉強しているか』のほうが大事なのでは?」と伝えたのですが、猛反発されました。
「運動神経がいいけど引きこもって体を動かしてない人」と「運動神経は悪いけど運動しまくってる人」
どちらのほうがスポーツができるかといえば後者でしょう(前者が鍛え始めたら話は変わりますが)。
”頭”も”体”と同じでどんなに地頭がよくても、頭を使う努力をしなければダメだと伝えたのですが平行線でした。
うーん…。そうなのか…。
自分はアホ側の人間なので、「努力」だけで今があると思っています。
たとえば、自分は医学書を単著で2冊書くという謎展開となり、学会とかにもお呼ばれして、膝をガクガク震わせながらも登壇したりしました。
ここに、自分の才能など皆無だと思っています。努力しただけの話。
「誰だって努力すれば医学書くらい書ける」と。
そう思っていたのですが、これを根底から覆される体験談を聞きました。
渡辺明「僕より弱い人は努力不足だと思ってたけど、息子に将棋を教えてたら自分が天才だったことに気がついた」 - Togetter [トゥギャッター]
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この話はご存じですか?
若くしてプロ棋士になり、今も現役で活躍中の渡辺明さんは、名人や竜王のタイトルをとった天才棋士です。
頭の良さが異常…。
渡辺さんが若くして竜王のタイトルをとったとき、こう思っていたそうです。
「自分が竜王になれたのは誰よりも努力したからだ。誰だって努力すればプロ棋士になってタイトルくらいとれる」と…。
んなわけあるか!って思いますけどね。
そして渡辺さんは
「自分より将棋が弱い人たちを『真面目にやらなかった人』とレッテルを張って馬鹿にしていた」と懺悔しておられます。
そう、過去形です。
今ではこの考えは間違っていたと改めているのです。
なぜ改めたかというと…
「子供ができて、将棋を教えていたら、自分には簡単にできたことが全然できない」
そこでようやく理解したそうです。
「自分には将棋の才能があったんだ」と
もちろんめちゃくちゃ努力したけど、才能があったからここまでたどり着くことができたんだとようやく気づかされたそうです。
そして、以前の自分を振り返り
「できない人を努力していないと決めつけて馬鹿にしていた昔の自分は最低だ」と猛省したそうです。
さて、この話をうけてどうでしょう?
似たような感じに陥ってませんか?
「めちゃくちゃ頭がいいのに、『努力だけ』で今の自分がある」と思い込んでいるそこのアナタ!
本当に努力だけでしょうか…?
才能も備わっていたのではありませんか?
自分の才能を卑下し、努力だけでやってきたと思い込んでいませんか?
そして、「努力してもできない」という人たちの悲痛な叫びを受けて、「努力が足りないのでは…」という感情が沸き起こっていませんか?
(もちろん、ガチで努力してない人たちもいるので、そこの見極めは難しい…)
渡辺さんの話は極端な話ですけど、何事も「努力だけ」でなんでもできるとは限りません。
自分がどんなにトレーニングしたって井上尚弥に勝てる未来はないのと同じで得手不得手はあると思います(井上尚弥の軽い左ジャブで再起不能になる自信あり)。
「自分と同じくらい努力すれば誰もが同じくらいできるようになる」とは限りません。
上達速度は人それぞれですし、どこまで高みに辿り着けるか(頭打ちになる高さ)も人それぞれです。
ということで、今は自分も少し考えを改めました。
自分はアホではあるけど、ちっぽけな才能があったから(※)、そこに膨大な努力をかけあわせて、本を書いたりすることができたんだと。
「努力すれば誰でもできることだ」などと言い放つことは、努力してもできないと悩んでいる人たちを傷つける言葉になると猛省しております。
※これについては議論の余地あり。やはり才能は皆無かもしれない。
こういう話になると、「結局は才能かよ」という絶望を感じますよね。
自分は日々感じております。アホだから無理や…と。
ただし
努力すれば確実に上達する
これは紛れもない事実です。まずこれを伝えるのが教育者の役目でしょう。
そして、その上達の傾きに個人差はあるということを”教育者側”は認識しておく必要はあります(指導する相手にそんな話をする必要はない)。
そこで冒頭のクソザコグラフの再登場です。

博士風の風貌のしごできな指導者は努力とともに上達してきました(しごできには見えない顔をしているが)。
努力とともに能力や成果を得ています。だいたいこのくらいの傾きで上達するとしごでき指導者は考えています。

そこで部下がやってきます。
いろいろ教えて、勉強させて、さてフタをあけてみたら赤丸の位置でした。

しごでき指導者からしたら、そのくらいの高さにはほんのわずかな時間で到達すると考えてしまっているので、「努力が足りない」と思ってしまいます。

しかし、フタをあけてみたら、部下は実は時間をかけて本を読み、いろいろ学んだ結果、今の位置…ということもありえます。
この長い努力を「努力していない」と言われてしまったらおそらく号泣するでしょうね。
まあこれは極端な例ですが、「傾き」は個人差があると考えています。
教育者にできることは、この傾きを少しでも上向きに上方修正する手助けをすることでしょうね(その方法は知らんけど)。
あと、「努力できることも才能のうち」という言説もあります(本記事ではそこは分けて考えましたが)。
これについては「地頭の良さ・才能」と「努力できる才能」はほぼ相関関係にあると思っています。
なぜなら、上記グラフの傾きがゆるやかな人は自然と「努力する才能も失いがち」と感じます。
才能がある人は、努力すればするほど自分自身の能力がみるみるうちに上達していくんです。そりゃ「努力」を嫌いになることはないでしょう。大変だとは思うかもしれませんが、成果は得られるわけですから、努力することの大事さを自覚することができ、努力する才能も身に付きます。
しかし、どんなに時間をかけて努力しても、ほかの人と比べて伸び悩んだり、上達しない・できないと感じれば、「努力」が嫌いになります。そりゃ努力する才能も失いますよ。
(身近にメンターがいないなかで論文を読むというトレーニングに何度挫折したことか…遠い目)
というわけで、努力できる才能を磨きたいのであれば、「努力が足りない」みたいな部下のやる気をそぐようなことは避けて、「なぜできないのか」を個々の事例の中身を掘り下げて上手にサポートしてあげるのがよいのだと思います(その方法は知らん 2度目)。
薬剤師という道を選び、資格を取得できたからには、そこになにかしらの才能があったのだと思いますが、薬剤師業務の中でも得手不得手はあると思います。
伸び悩むという壁を自分の力で打ち砕ける人もいれば、挫折する人もいます。誰かのサポートのもとで打ち砕くもよし、得意分野を模索して開花する道を探すのもよいかもしれません。伸び悩んだときに一緒に考えてあげるのがよい指導者なのでしょうね(自分は違う)。
最後に
「そもそもやる気がなくて一切努力をしようとしない人たちをどうするか」
教育者が一番悩んでいるのはそこですよね。
「やる気問題」については本記事では一切とりあげません。あしからず
(だって自分がやる気ない側の人間だから…。やる気の出し方という秘儀が存在するならぜひ教えてください)